今日はアメリカ人の友人とビジネスの打ち合わせをした。ついでに現在執筆中の本で使用する英語表現の校正をしてもらった。彼は私が最も信頼している人物であり、いつも的確なアドバイスがもらえる良きメンターでもある。人が良すぎるのが玉に瑕ではある。
校正をしてもらうとお陰様で大きく修正されることはないが、マイナーな修正は毎回どこかしらある。文法間違いなどではなく、表現上の問題であり、日本語をそのまま英語にすると生じる問題がほとんどだ。
学校英語では細かい表現の差異に敏感だ。その差異の説明ができることに優越感を覚えている教員も少なくない。また、重箱の隅をつつくような細かい差異を説明する書籍が売れていたりする。基本的な会話さえままならないにもかかわらず、そのような差異に敏感であることは奇妙に思える。
そのアメリカ人は、言葉は生き物だから変わる。現代ではそのスピードは驚くほど速い。何十年も前に習ったことが現代において正しいとも限らないのに、それをあたかも正しいかのように教えることには違和感を覚えると言っていた。また、今やネイティヴの数よりもノンネイティヴの方が圧倒的に数が多いので英語は考えられないほど変化しているとも述べていた。
以前、フランス人にフランス語を身につけるためにはやはり留学が良いのか聞いたところ、最近のフランス人は正しいフランス語を話していないから、アフリカに行ったらどうかなという回答。古い教科書を使っているところもあるらしいから、フランス人よりも正しい(昔の)フランス語を話しているそうだよ。と言われ驚いた。やはり言葉は生きていると再認識させられた。