卒業生寄贈の時計

コロナ以前に、とある用事で、とある高校の教室へ行きました。黒板の上に昔ながらの時計があり、懐かしいなぁと思いながらよく見ると、「平成〇〇年卒業生寄贈」との文字があった。考えてみれば、なぜ授業料も支払った高校にプレゼントまでしなければならないのだろうか?いじめなどでその高校に嫌な思い出しかない卒業生も、強制的にお金を集められて寄付させられるわけであるから、たまったものではない。と言うよりも、実際にお金を払っているのは卒業生ではなく保護者であるから虚偽表示もいいところである。 

よくよく考えてみれば昔は(今もそうなのかも?)学校と癒着している業者はかなりおいしかっただろう。制服は指定の場所でしか買えなかったし、ほぼ定価だった気がする。サービスもろくに良くない写真屋さんがイベントのたびに写真を撮り、高い価格で販売していたものだ。また、旅行会社もおいしかっただろう。修学旅行も積み立てをさせられていたが、それだけ積み立てれば海外に行けるだろうというほどのぼったくり価格だった気がする。それでもそれほど文句も出なかったのは日本社会全体が豊かであり、且つ良くも悪くも情報が少なかったからだろう。 

癒着はまたの機会に書くとして、寄贈の話に戻すと、寄贈しないという選択肢があっても良いだろうと思います。「寄贈」とは「学校などの公共性の高いところに物品を贈ること」と定義されていますが、ニュアンス的には自発的に寄付することと私は認識しているから、寄贈には違和感を覚えざるを得ません。受け取る側が意思を持たない学校ではなく、個人であったらおそらく問題となるのではないでしょうか。受け取り側が学校であり、みんなで使うから良いとの認識だと思いますが、みんなで使うものであれば学校側が用意すべきだと思います。 

話は少し逸れてしまいますが、教員をしていて一番嬉しかったのは学生から頂いた寄せ書きの色紙です。それも私が教員になって初めて担当させていただいたクラスで頂戴したもので、今でも大切に保管してあります。その色紙を渡されたときは嬉しすぎてリアクションできなかったのを鮮明に覚えています。涙がこぼれそうなのを我慢してそそくさと色紙を鞄にしまい、その場を立ち去ってしまった。もっとしっかりとお礼を述べるべきであったと今でも後悔している。そのときは照れ臭いやら涙を見られたくないやらで気が動転していた。後になって冷静に色紙を見ると、私の心が汚れているからかもしれないが、書きたくないのに書かされたようなコメントもありましたが、それも含め、思い出の品になっています。私がこの世を去り、火葬(鳥葬でも良い)されるときには一緒に入れてほしいとさえ思っている宝物です。贈り物というのはかくあるべきだということを学生から教えてもらった。ありがたい話である。